部屋と沈黙

本と生活の記録

名前のついていないマイノリティ

同い年で未婚の友人が、最近になってアニメ映画の試写会によく当選するようになったという。「たぶん年齢的に、子どもがいるって思われてるんだと思う」。試写会のチケットはペアで、つまるところは母と子である。

抽選の際、年齢をひとつの基準にしていることは間違いない。以前、母に連れられて行った山田洋次監督作品の試写会の年齢層は、概ね50代から60代だった。

私は「30代半ばの女性」ではあるけれど、「30代半ばの一般女性」の仲間には入れてもらえそうにない。「30代半ばの一般女性」はきっと、結婚して、4歳か5歳かくらいの子どもがいて、もしかしたら二人目もいるかもしれない。「30代半ばの女性」は「30代半ばの一般女性」の一般性にほんの少しだけ傷つけられて、私はこれを「名前のついていないマイノリティ」と呼んでいる。「一般女性」にすらなれなかった私たち。

でも、もしさ、仮によ、メディアに結婚を発表しなければならないような男性と万が一にも結婚することになったとしたら、私もやっぱり「一般女性」なんだろうか。こんなにも「一般女性」からはみ出しているのに?それなら「そのへんによくいる女性」のほうが、まだ私にしっくりくる。そんな女性が、誰かの特別になるのがいいんだよ!ロマンチック〜!「俳優の〇〇さん、そのへんによくいる女性との結婚を発表」とか?

……いやー、ないな!おかしいよ!「そのへんによくいる」のに、じゃあなんで結婚したんだっていう。「俳優の〇〇さん」に申し訳ない。どなたか存じ上げないが「そのへんによくいる女性」と結婚させてごめん。

もう「かねてより交際している女性」とか「交際女性」でいいか。「私は一般女性ではないと言い張る女性」でもいいけれど、面倒くささが滲み出ていて、聞かされるファンを不安に陥れるだろうし。とにかく「一般」はいらないって言おう。

……分かってる。こんなしょうもないことばっかり考えてるから結婚できないんだよ、って思ったでしょう。私もそう思う。でも1人くらいなら、面倒くささも込みで好きになってくれる人がいるかもしれない。

名前をつけられると、私はそこから出て行ってしまいたくなる。縛られて、動けなくなるのを恐れていている。ずっと動かしていたい。だからこそ、作用と反作用みたいな感じで、あらゆるものが流れ続けていたとしても、絶対に動かない何かを見つけたいと思う。

このあいだ、Twitterのトレンドに“HSP”が入っているのを見かけて、自分にもその傾向が大いにあると思いながらも「私ってHSPだったんだ〜!」とはならなかった。そんなことより「#HSPと繋がりたい」というハッシュタグの矛盾に笑ってしまう。他者と関わることで気疲れするのに、ハッシュタグで積極的に繋がろうとする人々。このちぐはぐさってなんなんだろう、ていうか、こんな揚げ足取り、私って意地悪だなーなどと、ややへこみながら眺めていた。

誰かが決めた何かのなかに、そのまま入りたくない。友だちの〇〇ちゃんが嫌っているから私も△△ちゃんが嫌い、とはならない。私が△△ちゃんを嫌いになるのは、私が△△ちゃんを知って、嫌いになったときだ。

私がHSPを自称することは、おそらく一生ないだろう。もちろん、名前がつくこと、何かに所属することで心が安定するならそれもいい。でも、私は少し違うみたい。私は名前のついていないマイノリティのままでいく。私に名前をつけられるのは、たぶん私だ。