部屋と沈黙

本と生活の記録

顔ファンと黄色い声

私の好きなあるバンドのボーカルが、MCで「黄色い声援が多いバンドだと思われたくないから、」と言い、会場内の男たちに声援を求めていた。それに応える野郎どもの無垢な雄叫びが可笑しくて、私はその動画をTwitterにシェアしたんだけど、今になって、投稿したことを少し後悔している。

「黄色い声援が多いバンドだと思われたくない」という彼の発言は、もしかすると、女の子のファンを軽く見ている、無意識の偏見と受け取られかねないのではないか。メジャーでのイメージ戦略やプロモーションもあるだろうに、わざわざあのシーンをシェアするなんて、私としたことが、迷惑なファンになってしまったかもしれない。どうしよう。

「考えすぎ」が私の短所であり、長所でもある。誤魔化さず、うやむやにせず、書いてみようと思う。

そのMCを聞いた当初は「へえ、彼もそんなふうに考えるんだな〜」と少し驚き、同時に納得もしていた。なぜなら、実際、彼は整った顔立ちをしているから。いわゆる「顔ファン」と呼ばれる女の子がいてもおかしくない。

それに、もし私が、なんらかの創作活動をしている絶世の美少女で、そのファンが男性ばかりだったとしたら、きっと彼と同じように考えるだろう。あの子のまわりには男ばかり。何か、別の力が作用しているんじゃないか。そんなふうに思われたくない。

つまり、これは“私の”話だ。彼の発言の話ではない。だから、ここからは私の話として読んでほしい。

まず「顔ファン」とは、アーティストの音楽そのものよりも、容姿の良さを愛でるファンのことである。音楽を主体とするバンド界隈において、顔ファンは敬遠される。愛でる対象がずれている、というわけだ。

最初に断っておくと、私自身は顔ファン肯定派のつもりでいた。顔ファンの何がいけないのだろう?美しい容姿は、たとえば印象的な歌声と同じように、皆に与えられるものではない。ただその人だけに帰属する、その人だけの、美しい才能だ。美しい才能に対して美しいと思う、それを敬遠すべき理由があるなら教えてくれ。

にもかかわらず、彼と同じような状況に立たされたとき、私もまた異性のファンを遠ざけたくなってしまうだろう。異性のファンを軽くみているわけではない。「顔が好き」だなんて最高の褒め言葉だと、頭では分かっている。それなのにどうしてだろう。

それはきっと、私の表現には普遍性があると、信じたいからだ。

私にとって最上の表現とは、それがいかに普遍的であるか、ということに尽きる。この世にふたつとない特別なものを生み出したいというよりは、皆がまだ見たことのない、でも本当は誰もが知っている、普遍的な何かを見いだしたい。性別や、言葉や、環境が違っても、それでも同じ何かを知っているはずだ。そこを響かせたいのに、たとえばファン層に偏りがあると、私の表現は不完全で、弱く、綻びがあり、容姿や性別といった、ほかの何かに補正してもらわなければ通じない程度のもの、と思えてしまう。自分の表現を信じたいのに。

己の声や、容姿や、持ちうるすべての才能を、自分の表現の手段として利用できれば、それはもう本当に、鳥肌が立つほどかっこいいだろう。伝説のアイドル松浦亜弥みたいな。彼女は、己の容姿の良さを自覚し、受け入れ、彼女が信じるアイドルを全力で表現していたと思う。容姿の良さなど、表現のための道具にすぎない。強く眩しい光だ。

今回は「私の話」なので、バンド名は伏せたけれど、本当に、良いバンドなんだよ。実際、広島の客層は男女半々くらいで、だからこそ、それまでおとなしくしていた野郎どもの雄叫びがおもしろかったんだけど。。うーん、、ま〜……、いいか!私のTwitterアカウントは弱小そのものだし、みんな気づいていないでしょう!大丈夫、大丈夫!

ともあれ、あの発言がフックになって、私にとっての表現が書けた。私は自分の好きなバンドすら利用して私を表現する。これが私だ。これが私の表現です。